高市首相にごまをすった世良公則氏を〇流アーティストと揶揄する大分合同新聞東西南北

2026年6月3日大分合同新聞東西南北コラムニスト康から

大分合同新聞東西南北に厳しい批評するとGoogleポリシー違反。主張する表現・思想・言論の自由を、マスメディアがこんなかたちで読者の声を萎縮させる一例。

2026年6月3日大分合同新聞東西南北は、日米の政治状況を強引に結びつけ、「リーダーが国民の分断を広げている」と締めくくった。しかしその論理の飛躍と表現の不適切さを観察すると、真に批判されるべき対象が誰であるかが浮き彫りになる。

このコラムを書いたコラムニスト康自身が、国民の分断を広げている分子である。

まずコラムが展開する日米の事例比較には、明らかな無理がある。

米国で問題となったのは、国家行事である建国250年記念コンサートの政治化(トランプ大統領による私物化)を危惧したアーティストたちの辞退だ。一方で日本側の舞台となった自民党大会は、最初から一政党の政治行事にすぎない。

そこに女性自衛官が制服で参加したことの是非は「公務員の政治的中立性」の文脈で語られるべきものであり、米国の事例とは本質的に性質が異なる。これらを「政治」という曖昧な言葉だけで同列に扱うのは、結論ありきの強引なこじつけだ。

さらにコラムは自民党大会での高市首相の様子を「ご機嫌」と描写するが、ここには現在の日本政治に対する致命的な認識不足が露呈している。いまの政治の混迷は、与党でありながら政権の足を引っ張り、結果として政策の遂行を阻害している複雑な構造にこそある。

こうした「与党と政権の乖離」という現実の政治課題を見ようとせず、単に「党大会で首相が喜んでいる」という表面的な絵面だけを捉えて批判の道具にする姿勢は、現在の政治の病理をまったく捉え切れていない。

こんなコラムニストが存在していること自体が、日本の悲劇的な現状であり、マスメディアの限界なのだ。

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最も看過できないのは、党大会で自身の名曲をアレンジして会場を盛り上げた世良公則氏に対し、「ごまをすった」「〇流アーティスト」と言い放つ露骨なレッテル貼りと揶揄の姿勢だ。

特定の政治的立場やイベントに関わった理由だけで、長年活躍してきた個人の表現活動や存在そのものを品性の欠ける言葉で貶める行為は、言論機関のコラムとしてあまりに主観的であり、独善的である。

筆者の個人的な嫌悪感や私怨が透けて見える文章は、新聞コラムとしての品格を著しく落としている。そもそも「政治は身近にある」と言い続けてきたのは、大分合同新聞である。相反する者が政治参加すれば、このような露骨な姿勢で腐すのは、もはやマスメディアとして体を成していない。

活動家がすることだ。

コラムは「リーダーが国民の分断を広げている」と結論づけるが、それは大きな間違いだ。

自身の思想や好悪に合わない者を容赦なく叩き、レッテルを貼って排除しようとする。このコラムニスト康の筆致そのものが、社会の分断を煽っている元凶だ。

世良公則氏を冷笑し、独善的な正義感から生まれる揶揄こそが、真の分断を生み出している。分断の張本人は、日米のリーダーではなく、客観性を失った大分合同新聞東西南北のコラムニスト自身である。

いつから大分合同新聞の看板コラムは、SNSの掃き溜めのような場所になってしまったのだろうか?

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