2026年10月16日大分合同新聞東西南北コラムニスト康氏から
大分合同新聞東西南北に厳しい批評するとGoogleポリシー違反。主張する表現・思想・言論の自由を、マスメディアがこんなかたちで読者の声を萎縮させる一例。
「過去は変えられる」
芸能人の見事なサクセスストーリーを使った、なんとも耳障りの良いポエムである。2026年10月16日付の大分合同新聞東西南北は、秋の新聞週間に合わせた手前味噌な美談で締めくくられていた。
福山雅治さんが長崎新聞を、Wエンジンのえとう窓口さんが大分合同新聞を、それぞれ小学生時代に配達して家計を支えたというエピソードだ。えとうさんは凱旋ライブで本紙に載ったことで「自身の捉え方次第で過去は変えられる」と気付いたという。
結構な話だ。
だがこの個人の結果論を「世の悲喜こもごもを伝える紙面をめくり、きょうも〈過去は変えられる〉ことを知る」と、新聞購読の価値へ強引に結びつける論理の飛躍には呆れを通り越して感心する。
ヤングケアラーさながらの過酷な児童労働の過去が、芸能界での成功という「勝者のバイアス」によって肯定されただけのこと。あくまでも成功の一例である。
それを「新聞をめくれば過去が変わる」とすり替えるのは、いくら新聞週間のPRとはいえ厚顔無恥が過ぎないか。この新聞社はまるで社会の実態がわかっていない。
このコラムが本当に罪深いのは、成功者の過去を美しく描く一方で、現在進行形で暗闇を走る配り手たちの過酷な実態に一切の関心を払っていないことだ。
彼らは、どれほど雷が鳴り響こうが、台風が直撃しようが、出勤を強いられる。雨の日には新聞を濡らさないよう1部ずつビニール袋で包む作業に追われ、配達時間は増加する。もちろん賃金には一切反映されない。
だが最大の苦境は天候ではない。「部数と折込チラシの激減」という構造的な暴力だ。
特に地方において全国紙を配る現場は悲惨を極める。購読世帯が点在する飛び地状態の中、受け持ち区域を走る距離と時間は変わらないのに、歩合(出来高)だけが容赦なく削られていく。
結果として何が起きるか。
大分県の最低賃金は現在1,035円(11月からは1,096円)、深夜割増を含めれば本来1,300円超が支払われるべき時間帯にもかかわらず、実態は時給換算で夜勤勤務であっても800円台に落ち込むことすらある。
これが配り手のリアルだ。
まだ世帯が固まっている地方紙は「ウチは違う」と目を背けるかもしれない。だが部数減に歯止めがかからない以上、この「飛び地化と実質時給の暴落」は地方紙にとっても決して他人事ではない、近い将来の確実な姿である。
フィクションコラムを平気で掲載し未だにコラムニストを続けられる康氏の大分合同新聞であれば、読者が離れていくその未来は明確だ。

さらに言えば、結びに向けての致命的な論理破綻も指摘しておかなければならない。
冒頭で福山さんもえとうさんも、配達の動機は「小遣い稼ぎ」や「家計・家族を支えるため」という切実な金銭的理由だったと明記している。
それにもかかわらず、最後は情報の役割を横取りし、「さまざまな配り手たちが〈社会と自分をつなぐため〉の情報を届けてくれている」と、配達員の労働動機まで綺麗事の理念にすり替えて回収しているのだ。
「生活のため」という生々しい労働の目的を、勝手に「社会とつなぐ尊い使命」へと改ざんする。この新聞社の自己陶酔こそが、新聞配達という労働環境への無関心を生む温床である。
新聞業界は普段の紙面で「日本人が貧しくなっている」「実質賃金の低下」「非正規雇用の困窮」を声高に憂いてみせる。だが、その立派な憂国の紙面を毎朝暗闇の中で届けている足元の配達員たちの困窮には見事なまでに無関心だ。
「社会と自分をつなぐ」などというタダのポエムでやりがい搾取を正当化する姿勢は、醜いほどの二重基準である。
2026年の新聞週間に、こんなコラムを読まされるとは思わなかった。紙面で「過去」を変える前に、まず自らの足元を支える配達員たちの現在を直視していただきたい。
美談で「社会をつなぐ」新聞配達員の腹は膨れない。


