2026年5月12日大分合同新聞東西南北コラムニスト康氏から
大分合同新聞の記事を引用し批判するとGoogleからポリシー違反大分合同新聞東西南北の誤字、反論のためにコラムをスクショで掲載すると、Googleからポリシー違反。フェイクニュースっておまえらが言うから、改ざんしていないコラムが必要じゃん。護憲派が税金で言論封殺するこの県の言論空間の異常性。
大型連休中、福島県の磐越道で新潟県の高校ソフトテニス部員らが乗るマイクロバスが横転する死亡事故が起きた。このニュースに触れ、大分県民の胸に深く刻まれた過去の2つの悲報を思い起こした人も少なくないだろう。
大分合同新聞の顔である東西南北のコラムニストも、その1人だったようだ。5月12日付の同コラムで、康氏は過去に大分で起きた高校生たちの痛ましい部活移動中のバス事故を振り返り、「どうすれば惨劇を防げるのか」「故人の遺志にどう報えるのか」と哀悼の意を綴った。
一見すると、未来ある若者の死を悼む真面目なコラムである。しかし彼らがこれまでやってきた報道の歴史と照らし合わせた時、この裏に潜むジャーナリズムのご都合主義が浮かび上がる。
亡くなられた日出生台の隊員を含めたすべての自衛隊に対してコラムニスト康氏が放った言葉をそのままお返ししよう。
「キショク悪い」と。

大分合同新聞の交通死亡事故で世論を動かす実績と置き去りにされた遺族
大分合同新聞には交通死亡事故に対して世論を動かした大きな実績がある。
大分市の194キロ死亡事故において、危険運転致死罪への訴因変更を求める遺族に寄り添い、巨大な世論を構築した。
だがその実態はどうだったか?
高裁では法曹界の有識者が大分合同新聞の紙面でも指摘したように、世論との乖離が如実に現れる極めて厳しい法規範が突きつけられている。
さらに彼らのダブルスタンダードは酷い。別の高速度100キロ死亡事故で被告人が出廷しなかった際、大分合同新聞は「身柄の拘束もある」と厳しい忠告をした裁判官を批判した。しかし現在、194キロ事故の高裁で出廷しない被告人に対し、遺族は「なぜ出廷しないのか理由を教えてほしい」と嘆き苦しんでいる。
弁護側の法廷戦略のアイデアを作ってしまったかのような間抜けな報道を展開した大分合同新聞のエース・羽山草平記者は「新聞労連大賞」を受賞。遺族が置き去りにされる中、ジャーナリズムだけが一人勝ちして祝杯をあげている。
辺野古の女子高生死亡事故に沈黙する不可解
世論を動かす力を持つ大分合同新聞に問いたい。
学生の悲劇的な事故に胸を痛めるのであれば、なぜ沖縄の辺野古で起きた高校生の痛ましい死亡事故について沈黙を貫いているのか?
もちろん彼らが「大分第一主義」であることは理解している。陸の交通事故と海や空の事故では、管轄や捜査が異なることも承知している。しかし大分合同新聞はこれまで「沖縄に心を寄せる」と称し、辺野古の基地反対運動には極めて強い関心と同情を寄せ、前のめりに政権批判の参戦をしていたではないか?
沖縄のイデオロギー闘争には熱狂するのに、学校行事で命を落とした女子高生の遺志には共鳴しない。この熱量の圧倒的な差は、あまりにも不可解である。
もうひとつ事実として付け加えておきたいのは、194キロ事故で遺族を置き去りにして一人勝ちの羽山草平記者を表彰した新聞労連は、辺野古基地反対派との親和性が極めて高い。
こういう報道機関を日本と大分では、ジャーナリズムと呼んでいる。
大分合同新聞の男子生徒の尊厳と女子生徒の軽視
なぜ彼らは、特定の高校生の命にだけ沈黙するのか。その理由は女性だからではない。彼らのイデオロギー闘争において「政治的な利用価値がないから」だ。
過去に女子中高生のスリーサイズを聞いて回る企画を平気で載せた彼らにとって、女子生徒とは「自社の企画を盛り上げるための性的搾取する道具」に過ぎない体質が根底にある。
大分合同新聞発展でリベラル左派増強という政治的な利用価値があったら、女子中高校生を含む県内女性のスリーサイズが必要だったのだ。だから彼らは恥じることなく、MeToo運動に参加した。
悲劇的な事故すらも、自分たちの主張に使える命ならば大々的に報じ、使えない命ならば冷酷に無視する。この徹底した「命の選別と政治利用」こそが、大分合同新聞の正体だ。
もしこれが「飛躍した論理だ」と憤るなら、ぜひ反論していただきたい。学校でも配布され、大分合同新聞の顔とされる東西南北の舞台で、堂々と説明するべきだ。
大分左翼ジャーナリズムの生き残りをかけた激しい討論をしよう。

新聞社の故人を利用するイタコ芸の同業者として
最後に、康コラムニストの特殊能力について触れておきたい。
彼は村山富市元首相の魂を降臨させるイタコ芸でコラムを書くことに定評がある。自分の言葉で語らず、権威や故人の口を借りて自らの主張を展開する手法だ。

先日沖縄タイムスが、読者からの投稿を掲載した件で謝罪に追い込まれた。
辺野古で亡くなった女子高生の遺志を、基地反対派の読者が勝手に代弁し、自らの政治的主張に利用したイタコ芸を掲載したからだ。
亡くなった高校生を利用してまで政治主張を行う。この沖縄タイムスの紙面と、康氏が書くコラムの根底にあるメンタリティは、驚くほど共通している。
故人をイタコ芸として使い、新聞社が自分の言葉で勝負できない姿勢について、康コラムニストは沖縄タイムスの炎上をどう見ているのか?
同業者として反省しているのか、それともイタコ芸の発展形として評価しているのか。
「どうすれば惨劇を防げるのか」と高校生の命を消費する前に、自らのペンが誰を傷つけ、誰を無視し、誰が得をしているのか。
その歪んだジャーナリズムこそを千思万考すべきである。

