
9月1日の大分合同新聞東西南北でコラムニストの康氏は、中道改革連合の破談を取り上げ、フランスの劇作家の言葉を引用して「判断力・忍耐力・記憶力の欠如」だと痛烈に腐している。
一見すると気の利いた政治風刺のようだが、このコラムには、現在のマスメディアが抱える致命的な無責任さと妄想癖が凝縮されていると感じた。
中道改革連合誕生時の熱狂と特有の手のひら返し
2026年大分合同新聞東西南北イタコ芸が得意なフィクション作家・康氏から
大分合同新聞東西南北に厳しい批評するとGoogleポリシー違反。主張する表現・思想・言論の自由を、マスメディアがこんなかたちで読者の声を萎縮させる一例。
康氏をはじめとするマスメディアは、この中道改革連合が誕生した際、政権交代の機運にウキウキと胸を躍らせていた。自民党を倒すためなら理念なき野合でも歓迎し、創価学会の組織票が野党側に流れることを期待して大いに持て囃していたのは、紛れもなく大分合同新聞を含むマスメディアだった。
政権交代の機運などと浮かれていたのは、浅い報道姿勢のマスメディアとイデオロギーで目が眩んだ矛盾だらけの一部左翼陣営だけだったのだ。しかしいざそれが破談になると、かつての期待を綺麗さっぱり忘れ、「理念なき野合」「ズッコケ劇」と上から目線で切り捨てる。
自分たちが煽った熱狂に対する反省も総括もなく、都合が悪くなると他人のせいにして冷笑する。冒頭で引用された「記憶力の欠如」という言葉は、中道改革連合ではなく、大分合同新聞東西南北と康氏にこそふさわしい。
また野合は今回だけではない。過去に結果を出した野合があったことを、このフィクション作家・康氏はもう忘れたのだろうか?
現大分市長の足立信也氏が2016年の参院選の際に、「西日本の1人区で唯一の野党勝利」を収めた要因が、他ならぬ「理念なき野合」であったという記憶すら、もう忘れているのが大分合同新聞の康氏なのである。
康氏の致命的な判断力・忍耐力・記憶力の欠如だ。
「ホホホホ」に透けて見える解像度の低さと妄想癖
さらに致命的なのは、コラムの結びである。康氏は首相周辺の様子をこう描写した。
「官邸のあの人は『ホホホホ』と高笑いが止まらないであろう。」
またしても、康氏の専売特許である「誰も見ていない密室の情景を勝手な妄想で断定する悪癖」である。
複雑な政治力学の分析を放棄し、首相を「『ホホホホ』と笑う悪役」のように脳内で勝手にキャラ付けし、それを事実であるかのように新聞に書き連ねる。
被災地をコントにし、高市首相を叩くためにフィクションの世界へ逃亡した彼の手法は、まったく治っていない。

政治家を「自分の思い通りに動くわかりやすい悪役」としてしか描写できないボキャブラリーの貧困さは、ジャーナリストの筆致ではなく、明らかに偏ったイデオロギーを持つ活動家である。
ちなみに、高市首相であれば笑い声は「ホホホホ」ではなく、「ケッケッケッ」だ。
カメラにしっかりと収まっているファニーすら拾うことができず、イタコ芸に頼る康氏の解像度はとんでもなく低い。
康氏はポリティカル・エロスを抱えて実家へ帰れ
とはいえ、そんなにキーキーと康氏を責めるのも味気ない。たまには褒めておきたい。
「さほど愛してないのに同床に就いた」という表現には思わず笑ってしまった。 ついに大分合同新聞の看板コラムは、「フィクション」から「ポリティカル・エロス」の領域にまで到達したらしい。
かつて女子中高生を含む県民女性にスリーサイズを聞いて回りながら、その後MeToo運動に便乗していた過去から約10年。ついに政治欄で官能小説を書くまでになった大分合同新聞の成長を、大いに讃えようではないか。
事実を無視して自らに都合の良い声だけを拾い上げ、妄想と憎悪を垂れ流すそのスタイルは、やはり新聞という公器にはふさわしくない。
康氏には、一刻も早く彼の本当の実家であるX(旧Twitter)へ帰還していただきたい。あるいはいっそのこと、noteでその妄想力を存分に発揮し、『大分(だいぶ)政治的官能小説』の連載でも始めてみてはいかがだろうか?
人の不幸や災害をダシにして書く圧倒的高市憎悪のフィクションは、間違いなく彼と同じ特定のイデオロギーを持つ熱烈な陣営が大挙して集まり、わっしょいわっしょいと神輿を担いでくれるはずだ。
康氏は思う存分、その神輿の上で気持ちよくイタコ芸でもしていればいい。
それこそが、大分合同新聞にとって、大分県にとって、最も明るく有益な未来である。

