福岡市3歳男児(大分市皆春)死亡事故で振り返る大分合同新聞の無責任さ

2026年9月25日大分合同新聞東西南北コラムニスト康氏から。

2026年9月25日付の大分合同新聞東西南北。コラムニスト康氏は、福岡市西区で起きた飲酒運転による大分市皆春の3歳男児死亡事故の悲痛な情景を描写し、「なぜ酒を飲んでハンドルを握るのか」と憤りを見せている。

一見すると幼い命を奪われたことへの真っ当な怒りと哀悼に満ちたコラムだが、これまでの大分合同新聞の不健全な報道姿勢を踏まえると、単なる悲劇の消費にしか見えない。

康氏はこのコラムで危険運転に対する強い怒りを表明しているが、大分合同新聞自身が危険運転に対して一貫した厳しい姿勢を取ってきたとは到底言えない。

国政政党代表による時速149キロという重大なスピード違反が発覚した際、週刊誌が先行報道しているにもかかわらず、194キロ事故に関心が高い大分合同新聞は長期間にわたって不自然な沈黙を貫いた。

相手が批判しやすい一般人であれば感情的に牙を剥く一方で、特定の政治家であれば筆が鈍る。この露骨な二重基準こそが彼らの本質である。

さらに悪質なのは、法規範や司法の場における大分合同新聞の自己矛盾と無責任さだ。かつて安保法制の議論において、いわゆる「礒崎発言(法的安定性は関係ない)」を徹底的に糾弾し、世論を煽って落選にまで追い込んだのは大分合同新聞である。

しかし大分市で起きた時速194キロ死亡事故において、彼らは自ら世論を煽り、法解釈を拡大して厳罰化(危険運転致死傷罪適用)を求める波を作り出した。自らは世論の力で「法的安定性」を揺るがそうとしたのだ。

結果として高裁では、遺族や世論が望む判決は覆された。罪刑法定主義の観点からそうなる可能性は法曹界からも指摘されており、大分合同新聞の特集紙面でも触れられていた。

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また194キロ事故の高裁において「被告人が出廷しない」という事態が起き、「なぜ出廷しないのか?」と遺族は悲痛な声を上げた。

大分合同新聞はこの状況を招いた一因が自分たちにあることを隠蔽している。

194キロ事故の1ヶ月前に起きた100キロ死亡事故の公判において、育児を理由に出廷しなかった被告人に対し「身柄の拘束もある」と警告した裁判官を、同紙は「脅迫だ」と糾弾し、不出廷の被告人を擁護した過去がある。なぜ大分合同新聞は、遺族に対して自分たちの過去の言動を正直に説明できないのか。

194キロ事故の報道で新聞労連ジャーナリズム大賞を受賞した羽山草平記者も同様だ。遺族に寄り添うポーズを見せながら、不出廷理由の背景にある事実を語れていない。

辺野古での女子高生死亡事故には鈍足な報道しかせず「命の選別」を疑われるマスメディア界隈と、それに親和性の高い新聞労連。そこから賞を与えられ、悦に入っている姿には嫌悪感すら覚える。

こんなくだらない称賛と権威を拒絶する勇気すらないのが、大分合同新聞の記者たちである。

恥を知れ。

また法規範の整備に関しても、地元選出であった有志の会代表・吉良州司元議員は自身の国会活動で「世界を知る私」と自己顕示に終始し、法整備への取り組みを他の議員に任せきりにして機能不全に陥っていた。

一方で、自民党の古庄議員と共に危険運転厳罰化の問題に汗を流し、法規制に取り組んだ白坂議員を落選(2026年2月衆院選で国政復帰)させたのは大分県民である。

何もしない議員を野放しにし、地元の問題に奔走する議員を落選させる大分。その歪んだ民意を形成した一因こそが、大分合同新聞の報道の結果だ。

結局のところ、今回のような痛ましい福岡市3歳男児死亡事故も、大分合同新聞にとっては自己陶酔的な正義感を満たすための材料に過ぎないのではないか?

非常に偏っている新聞労連のジャーナリズム大賞を獲得し、記者の功績として消費されるだけで、遺族は決して報われない。

194キロ事故でも「一人勝ち」したのは大分合同新聞だけだった。

大分市皆春の幼い男児の死を悼む気持ちは、誰もが共有する当然の想いだ。けっして許容できる喪失ではない。しかし自分たちがこれまで何を為し、誰を傷つけてきたのか?

その不健全で野心に満ちた報道姿勢を猛省することが先である。理不尽な交通事故への怒りは当然だが、大分合同新聞のような報道機関が正義を気取ってのぼせ上がることも、到底我慢できるものではない。

どこにも行けない社会を作っているのは、大分合同新聞である。