人権週間が始まりました。人としての権利があることを喧伝し、考えてもらう週間になります。伊藤詩織さんが啓蒙することにもなった性被害に対する行政・司法の物足りなさ、#me tooを使って女性が性被害やセクハラを訴える画期的な年になったことから、女性の権利について考える年になったと感じます。
当ブログ大分論壇は、大分大学のIPアドレスを隠蔽した人権派から女性蔑視と罵られました。しかもどこから来たのかよくわからない保守が出てきて、政治的イデオロギーを糾弾されました。もう3年目に突入しましたが、大分最高学府が人権を使って自分のイデオロギ―を正当化し、相手の表現・思想・言論の自由を侵害する極めて重大な人権侵害が行われたと主張します。
大分大学の人権派にとって、大分論壇は卑近な思想に映るでしょう。しかし卑近な思想を理由に「政治を語ってはいけない」とはどういうことでしょうか?参政権の否定を大分大学からIPアドレスを隠蔽して行う恐るべき大分があります。
この恐るべき大分が起きた背景を紹介しておきましょう。
大分合同新聞が女性に向けてスリーサイズを聞いていました。そこで当ブログである大分論壇が「おっぱいが好きでサイズを知りたいけれど、女性にスリーサイズを聞くのはおかしい。女性のかわいいはもっと他にある」と主張しただけで、なぜか大分合同新聞ではなく当ブログが女性蔑視と指摘されました。
さらに驚いたことがあります。それは人権派を謳う団体です。いろんな全国の団体に相談をしました。そうすると「あなたにも非があったのでは?」と返ってきました。性被害に対して女性に非がないことを述べている人権界隈から平然とこんな言葉が出てくる。しまいには「公表しないでほしい」なんて必死で懇願してくる。自分たちの評判しか考えていない証明ができます。とあるアカハラ防止団体に関しては、無視され続けました。正直吐き気がしました。
これが日本の人権団体の実態です。この人たちは誰を助けたいのでしょうか?
大分大学の人権派がしたかったことは、ただ自分とは相容れない政治イデオロギーの排除をしたかっただけ。IPアドレス隠蔽を指摘しただけですぐに逃げ出したことで明確です。「論壇」は意見を述べる場所と言いながら、逃げ出す人権派って何がしたいのでしょうか?しかもそちらの裁量であれば、確実に人権侵害を行っていることを忘れてはいけません。
さらに残念なのが、大分大学からもう500以上の大分大学IPアドレス隠蔽事件に関する記事にアクセス形跡があるのに、大分の知性が黙り込んでいること。こんなところで文化人の輩出を目的としたオープンカレッジin大分が開催されるなんて納得ができません。「誰でも安心して暮らせる大分」なんて教授が意気揚々に語っていましたが、僕は人間ではないのでしょうか?
僕は本当に悔しい。
僕が生まれた時から、素晴らしく尊敬する母と姉2人の女性と過ごしてきました。究極のマザコンとシスコンを自負しています。僕はすべての女性に敬意を持って接してきたはずです。
付き合ってきた女の子みんなが僕を評すとき「向き合ってくれる」と言ってくれました。これは僕の誇りです。ちなみにとってもかわいい妻は、もっと僕のことを褒めることができると言いますが、僕は彼女の素晴らしい点を、容姿以外でそれ以上に述べることができます。
そんな僕が大分合同新聞のセクハラに対して異を唱えただけで、女性蔑視・差別的言動と罵られた。これが悔しいのです。正確な状況判断と論理的な思考が排除された僕のことを何も知らない人間から、女性蔑視なんて軽々しく言ってほしくない。
そして最大の問題点。保守がなぜどこから出てきたのか?
政治的イデオロギーによって、基本的人権の根幹である表現・思想・言論の自由の侵害、そして参政権の否定を正当化できるのでしょうか?なぜ保守に対称する思想を持つ側が行う人権侵害やヘイトスピーチは、無視され続けているのでしょうか?人権派こそ答えるべきだ。
大分最高学府から稚拙な主張が出てくる大分が、僕は本当に許せません。自分で文化水準が高いなんて言いながら、学府に適さないロジックを持っている。大分最高学府・大分の名門が大分大学であることを忘れないでください。
大分大学IPアドレス隠蔽事件から3年目の人権週間。いまだに何も大分大学から反応はありません。500以上のアクセスがあり、明確な人権侵害と卑劣な人格否定が行われたのに反応なし。こんな大学があること事態、僕は信じられないし、大分の弱い部分の戯画化だと感じます。自発的に知性から意見が出てくることを僕は望みます。
誰でも主張できる大分であるべきです。辛いときに声をあげることができる大分であるべきです。その声を、思想や立場が違っても拾い上げて心寄せて共に戦う大分であるべきです。
物事を正確に状況判断する能力に欠け、論理的な思考ができない人権派。公共の福祉なんて知らずに、自身のイデオロギーを正当化するために人権を濫用する。脊髄反射で人権を活用し相手の人権を平然と奪う自称人権派によって、確かに傷ついている人がいます。それは僕です。僕の他にもたくさんいるはずです。この人たちの無念を無視するのが正しいのでしょうか?人並の人権意識を持っている僕らは、人間ではないのでしょうか?
この人権週間を通して考えてほしいのです。公共の福祉を無視しためちゃくちゃな裁量によって、社会活動の低迷を生む自称人権派の存在。自身以外を認めることができない人たちが奏でるイデオロギーを正当化するために人権が使われている実態に向き合うべきです。
人権が高潔な権利であり続けるために、僕は大分県民に問い続けます。
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