大分合同新聞の連載小説「誾GIN」の挿絵に参加する学生たちに知ってほしい大分があります。
全国初の取り組みとなるGINプロジェクトは学生たちの表現の躍動で、大分だけではなく全国を席巻することになるのでしょう。
しかし基本的人権の根幹である表現の自由が税金で脅かされた大分を知っていますか?
そのきっかけが大分合同新聞であることも。
大分合同新聞連載小説赤神諒さん「誾GIN」の挿絵に参加する高校生たちへ
芸術緑丘高校の表現をけっして邪魔するつもりはありません。大分合同新聞連載小説赤神諒さん「誾GIN」の挿絵で、表現が瑞々しく躍動する場であってほしいと願います。
ただこの大分の事実だけは、若き表現者として知っておいてほしいのです。
大分県は、女子高校生にスリーサイズを聞いた大分合同新聞を庇う教育者であれば税金で表現の自由を侵害できます。
スリーサイズを聞かれる女子生徒よりも大分合同新聞が優先な教育者
2015年6月5日、大分大学のIP偽装(身元をわからなくする隠蔽)をして税金で表現の自由を侵害した教育者。
大分合同新聞が女子中高校生を含む県民女性にスリーサイズを聞くセクハラが発端です。
「セクハラ」と声をあげた女子高校生よりも、教育者が愛でる新聞社や自身の政治思想を正当化させるために起きた人権侵害(大分合同新聞の声を借りれば)です。
教育現場に新聞を持ち込もうとする動きNIE(教育に新聞を)に力を入れる教育者を見掛けることが多い大分県。
このGINプロジェクトも、表には出しませんがその一環。新聞に親しむ社会的な有益性もありますが、部数を伸ばす方策もNIE(教育に新聞を)にはあります。
生徒を守るよりも新聞社を庇護したい教育者がいても、不思議ではない大分です。
「大分県教委汚職事件について大分大学で議論をしましょう」と持ちかけただけで、慌てて逃げ出す教育者が問題にならないのですから。
ちなみに、この汚職事件は大分合同新聞の幹部も関与していた大分の未解決事件です。
赤神諒さん「誾GIN」の挿絵で高校生の表現が本当に自由であったのかどうかを検証したいほど、教育に対し大分合同新聞が関与する企画に猜疑心を抱いています。
それほど教育と大分合同新聞のコラボを信用していません。
税金で表現の自由を侵害した日がアルゲリッチの日になったミラクルな大分県
明確な人権侵害(大分合同新聞の言葉を借りれば)が税金で起きた6月5日は、2022年から世界的ピアニストを顕彰するアルゲリッチの日になりました。
こんな偶然が起きるのも大分県です。
なんという不名誉なミラクルでしょうか?
どこかしら嬉々とした感情が先行して、うっとりとした出来事です。表現の神様っているのかもしれません。
でも思うのです。
こんなことが平然と起きる大分で根付いた文化芸術に、どんな価値があるのでしょうか?
表現者の活躍の場を奪う気なんてこれっぽっちもありませんが、表現の自由を税金で侵害された僕の本音です。
「表現の自由への侵害は問題ではない」と大分芸術界隈から発信を
大分大学のIPを偽装して税金で表現の自由を侵害することを悪とするのは、僕の傲慢なのかもしれません。
大分は、特に大分一区は「私に異論があるなら戦争に行け」と反対派に死を切望する国会議員が誕生しました。
大分市は民意として独裁者を求めていることから、基本的人権の根幹が税金で侵害されても問題ではないのかもしれません。
これは民意ですので、百歩譲って理解はしましょう。平和と人権を愛する大分合同新聞も「反対派は死ね」の国会議員を野放しにしているのですから。
よって、大分の芸術界隈から「気に入らない人物の表現を排除することは問題ではない」と発信していただきたい。
赤神諒さん連名で今回の企画として発信することを提案します。
愛読している赤神諒さんや誾GIN挿絵に参加する学生からそう言われると心を痛めますが、これが大分の民意ですので僕の傲慢として受け入れ、そして「間違っている」と抗っていく覚悟です。
もちろんNIE(教育に新聞を)の健全なる民主主義構築プロセス理念から離れていることも、強く主張していきます。
女子高校生によるセクハラの声を淘汰した大分県と日本
大分合同新聞の連載小説「誾GIN」を通して、県民に瑞々しい芸術の感性が降り注ぐ日々を演出する芸術緑丘高校の学生に、最も理解してほしいことがあります。
それは、「セクハラ」の声を上げたひとりの女子高校生の声を淘汰した大分県であり日本であることです。
大分大学のIP偽装をする教育者は、本来守らなければならない学生よりもセクハラをした新聞社を税金で守りました。
MeToo運動が活性化した際、この運動に精力的に取り組んでいたネット通信社や大分合同新聞も加盟する新聞労連にも告発しましたが、無視されました。
「少数派の声を聞け」や「セクハラをやめよう」と喧伝される方々が、こんな姿勢であることに酷く失望した経験です。
そして大分合同新聞の女性記者も、自社のセクハラに向き合う気すらありません。
こういう女性記者が「身近なSDGs(ジェンダー項目あり)から」なんて発言しているのですから、日本も大分も良くならない淵源に触れることができます。
女性蔑視問題に精力的に取り組む側が女子高校生の声を淘汰したことは、「誾GIN」の挿絵に参加する学生たちに最も認識してほしいことです。
事実として、表現の場を提供する大分合同新聞が関与しているのですから。
そのような不誠実な大人たちが提供する場に接近する学生を見ると、ひやひやとします。
映画界で明るみとなったあらゆるハラスメントと性被害問題は、このような不誠実な人間が起こした芸術界隈の不祥事であることを、学生たちには理解してほしいのです。
赤神諒さんのGINプロジェクトを大分モデルにする是非
学生の表現の場を奪うようなことは、けっしてあってはなりません。
税金で表現の自由を侵害できる大分のきっかけを作った大分合同新聞の連載小説であったとしても、表現の自由を奪うことを僕は望みません。
その表現について敵愾心が芽生えたら、言論で抗うだけです。
表現・思想・言論の自由とは、基本的人権の根幹です。
ただひとつ、当時の高校生にセクハラをしその声を淘汰した大分合同新聞に現役の高校生が協力するこの構図だけは頭の片隅に入れておいてほしいです。
赤神諒さんの「誾GIN」は、小説から飛び出す大分モデル構想もあります。
護憲派教育者が平然と税金で表現の自由を侵害する大分だからこそ、このGINプロジェクトによる大分モデルを歓迎します。
しかしこのような表現や人権をめぐる二重基準とも言える不都合な大分を無視したまま、大分モデルと称して邁進して良いのか?
芸術緑丘高校の学生をアーティストの卵と大分合同新聞は書いていましたが、僕はそうとは思いません。
命を宿すすべてのモノは表現者です。
自分たちが認めたくない人物を淘汰する大分県と日本を、表現者である高校生たちの理性や知性にちょっとだけ添えてほしい。
これ以上を望みません。
このちょっとだけが、都合よく逃げ続ける不誠実な大人たちと向き合うきっかけになるかもしれません。
若い世代によって、大分の意識が変革するGINプロジェクトになることを願います。