
選挙戦も終盤。各候補者が声を枯らす中、吉良州司氏のブログや言動から見えてくるのは、将来世代という言葉とは裏腹な「高齢者が支持する過去への執着」と「現状認識の甘さ」です。
なぜ当選8回を目指すベテラン議員に、私たちの未来を託してはいけないのか?感情論ではなく、彼自身の発信と事実に基づいて検証しましょう。
「死んでもいい」を美談にする吉良州司氏の感性に違和感
吉良氏の選挙戦ブログ(10日目)において、あるエピソードが紹介されました。
親御さんが20年来のファンだという女性が涙ながらに「やっと会えた。これでいつ死んでもいい」と語り、それを陣営が「元気が出る出会い」として好意的に掲載したのです。
死んでもいい政治は日本に存在してはならない
支持者が感極まってそんな言葉を使うことはあるでしょう。許容範囲です。
しかし、それを「手応え」として広報にしてしまう神経を疑います。政治家の使命は、市民に「死んでもいい」と思わせることではなく、「生きていてよかった」と思える社会を作るその一点にしかありません。
「投票してから死ぬ」というジョークで笑顔になったとありますが、それを美談として消費する姿勢からは、有権者を票としてしか見ていない吉良陣営の冷酷さを感じます。
当選8回を目指すベテランが、まるで芸能人のような「ファン対応」に満足している時点で、政治家としての視座が低すぎるのです。
ここに、吉良氏の危険な本質が透けて見えます。
かつて彼は自身の考えに反対する日本国民に対し「反対なら銃を持って戦争に行け」という趣旨の暴論を吐いたことがあります。自分を支持して涙を流す者には「死んでもいい」という言葉を美談として受け入れ、自分に反対する者には「戦場に行け」と突き放す。
この2つに共通するのは、「他者の生命に対する決定的な軽視」です。自分の政治的立場の正当化のためなら、市民の命すら道具にする。この冷酷な政治姿勢こそが、吉良州司氏という政治家の正体です。
死んでいい政治を進める吉良州司氏。いくら実績ゼロだとしても、危険すぎる政治家です。
将来世代という看板と20年の空白
「将来世代のことを考えているのは吉良さんだけ」
ブログではそのような支持者の声が紹介されていますが、ここに決定的な矛盾があります。
吉良州司氏は20年以上もいて何の実績があるのか?
吉良氏が初当選したのは2003年。もう20年以上、国政の場にいます。
「20年前からのファン」という記述が証明するように、彼の支持基盤は完全に過去と高齢者です。吉良氏のターゲット層である将来世代の労働者は、ここに存在しません。
もし彼が本当に「将来世代優先」で結果を出してきたのであれば、今の大分の現状はどうでしょうか?
20年以上バッジをつけていて、いまだに「将来世代のために」と叫び続けているのは、裏を返せば「この20年間、将来世代のための課題を解決できていない」自白です。
長期間現職にありながら、現状を変えられていない政治家が語る未来ほど、空虚なものはありません。ここで証明されました。
将来世代優先ではなく、すべては吉良ファーストだと。
2026衆院選大分1区は吉良州司氏という実績ゼロの過去を選ぶか?新しい未来を選ぶか?
「書かれちょんことは全部その通りや」
ひとつはっきりさせておきたいのは、吉良支持者のすごいところは「何が正しいのか?」を問いかけたら、すべて黙り込んでしまうところなのです。
誰も正しさを証明できない。各政党いろんな支持者がいますが、ここまで沈黙してしまう支持者も珍しい。
これは吉良州司氏も同じ。議論を投げかけたら「銃を持って戦争に行け」の暴論が飛んでくる。
こんな民意が20年以上、県都がある大分市の大分1区では続いているのです。
自分を全肯定する意見だけに囲まれ、「過去最高の手応え」を感じている吉良氏。それは批判や変化を恐れ、心地よい空間に閉じこもる裸の王様の状態です。
耳触りの良い賞賛の中で思考停止しているベテラン議員に、大分のそして日本の閉塞感を打破することはできません。
未だに2026衆院選大分1区で当落線上にいる吉良州司氏。
大分1区が吉良ファーストの政策で国民主権を投げ出すのか?それとも民意を反映させるのか?
「死んでもいい」を美談にして過去に縋る政治ではなく、「生きたい」と思える未来を作る選択のために、私たちは今その分岐点に立っています。


