大分1区有志の会代表・吉良州司さんを議員辞職に追い込む事実しかない2択クイズ

吉良州司議員が最悪の改悪なサイトリニューアルをしたので、当ブログが反論に引用した吉良議員のブログ記事に容易に辿り着けなくなりました。意図的な国会議員による表現・思想・言論の自由を侵害する工作活動として非難します。

吉良州司議員の予算委員会で共感・称賛・激励が全国各地から寄せられることに対する考察 わかりやすさは正しさを保証しない

吉良州司議員が2025年12月10日の予算委員会での質疑後、全国各地から寄せられた共感・称賛・激励の声に感謝しています。

わたしは2回ほど見直しましたが、吉良議員の質疑に共感・称賛・激励の声を寄せる方の読解力がとても羨ましく感じるほど、よく理解できませんでした。

そんなわたしの感想を簡潔に述べてから、今回の吉良議員のブログを考察します。

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吉良州司議員の国会質問で全国各地から寄せられた「共感・称賛・激励」から読み取れること

これは吉良州司議員が2025年12月10日の予算委員会での質疑後、ご自身のブログで述べられた言葉です。

「私の質問(というより実際上は、パネルを使った『日本の経済構造の解説』と『生活者を優先すべき』という持論展開ですが。)」2025.12.14吉良州司議員のブログから

この自己評価には、すでに今回の国会質問の性質を自ら定義する重要な要素が含まれています。

「質問ではなかった」こと自体は問題ではない

まず、議論の前提として確認すべき点があります。

吉良議員が政府答弁を引き出すことよりも、「ご自身の持論を提示することに主眼を置かれていた」という点そのものを責めるつもりはございません。

このブログの厳しい吉良批判の論調から逸れることになりますが、吉良議員のように言論空間として戦前の日本に戻ってはいけないと警鐘を鳴らしながら「私の言論に反対なら銃を持って戦ってください」なんてことは、大分論壇はけっして言わないはず。

吉良州司議員のブログから

大分論壇の言論空間における寛容さに甘え、質問をしない吉良州司議員を責めることは致しません。

国会には政府に対する「質問を通じた検証」という側面だけでなく、国民に対して「問題提起や論点を示す役割」の両面があるからです。

問題はその提示された内容の正確さにあると考えます。

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嘘をつかないデータが必ずしも正しい説明とは限らない

吉良議員はブログで「嘘をつかないデータ」「真実を語りかけてくれるデータ」という言葉を使われています。

しかしデータが事実であることと、そのデータに基づいた解釈や説明が正しいことは全く別の問題です。

またその嘘をつかない真実のデータを示したパネルが、ブログに掲載されていない吉良議員の稚拙さも指摘しておきます。

円高=生活者にとって良いという短絡的な結論

たとえば、「100円ショップ」の価格の例は、確かに「わかりやすい」物語として強く印象付けられます。しかしこの説明からは、現在の経済が抱える複雑な背景が完全に抜け落ちています。

  • 100円ショップ自体のビジネスモデルの変化
  • 原材料費・物流費・人件費といった、為替以外のコスト上昇要因
  • デフレ下という特殊な価格環境と現在の環境との違い
  • 円高期と現在で変化した消費者ニーズ

「民主党政権時代には100円だった」という過去の事実が現在も円高になったからといって再現される保証はどこにもありません。

これは経済構造の緻密な説明ではなく、「あの頃は良かった」という記憶に訴えかける吉良州司さんの物語化と言えるのではないでしょうか?

国会議員ではなく、作家の仕事です。

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ドルベースGDPの議論が抱える基本的な問題

吉良議員が「自民党政権では米国ドルベースのGDPはむしろ下がり続けてきました」と指摘されている点についても、基本的な経済指標の理解において注意が必要です。

  • ドルベースGDPは国内経済の実態だけでなく為替変動の影響を強く受ける指標
  • 円安になればドルベースGDPは数字上は下がり、円高になれば数字上は上がる

この点は大分論壇が長年指摘していることから、読者の皆様はお馴染みのはず。当然の知識です。

したがって「ドルベースGDPの低下=日本経済の失敗」という結論は、為替の基本的な影響を無視したあまりにも単純化された説明であると言わざるを得ません。

経済を語る上で、この前提を捨象することは非常に危険な国会議員による世論誘導です。

生活者主権という言葉が持つ危うさ

「生活者」を優先するという理念自体は理解できますが、「生活者を優先すれば円高の方がいい」という断定には大きな問題があります。

この言い切りは、輸出企業・雇用・税収そして最終的な賃金といった、経済全体のトレードオフ(あちらを立てればこちらが立たない関係)を意図的に語っていません。結果として、「生活者」と「産業界」という、実態を単純化した対立構造を生み出してしまいます。

ご本人は「対立させていない」と述べられていますが、その説明の構造はこの対立に依存しているように見受けられます。

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なぜ吉良州司議員の演説になる「わかりやすい国会質問」が共感・称賛・激励の支持を集めてしまうのか

このテーマは、今回の政治的議論として最も重要な論点にしたいです。

吉良州司議員の質問をしない演説の国会質問が、全国各地から共感・称賛・激励で支持される理由は、吉良さんの経済的な正確さにあるわけではありません。

むしろ正確ではないから、共感・称賛・激励の支持を集めていると感じます。

圧倒的なわかりやすさ

複雑な経済の仕組みを、100円ショップや家計に例える国家財政といった単純な事例で説明することで、多くの人が「わかった気になる」構成になっています。

国民の「怒り」の代弁

物価高や実質賃金の低下に対する国民の不満や不安を、「国会で言ってくれた」という共感や代弁そのものが、内容の検証よりも先に評価されてしまいます。

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吉良州司議員へ向けられる共感・称賛・激励の支持は政治として健全な方向か?

正確さを欠いたままの単純化や、再現性の低い過去の事例、そして為替と生活を短絡的に結びつける説明が、「わかりやすさ」の名のもとに広まると、誤った経済理解が社会に定着してしまいます。

一時的な納得感は得られるかもしれませんが、それは長期的な政策判断を誤らせる危険性を伴います。

政治が「わかった気」を量産する方向へ進むことは、最終的に国民、とりわけ生活者の不利益に繋がりかねません。

それを大分1区の有権者は、吉良さんに対し、長年寛容的にそして慣用に認めてきました。

実例として、「地域の問題を立法府に落としてくれない吉良州司議員」という不利益を被っている大分1区の嘘偽りのない真実のデータが顕在しています。

幻の反論を生んだのは誰か?

吉良議員は、時間の都合で語れなかった論点を「幻の反論」「幻の打ち返し」と表現されています。しかしこの「幻」は、政権など誰かに奪われたものではなく、吉良議員ご自身が生み出したものであることを理解していただけなければ困ります。

時間は「奪われた」のではなく「配分された」

吉良議員が無所属であり、今回の質問時間が立憲民主党・国民民主党からの配分によって得られたもの(※)で、持ち時間が少なかったことは事実です。制約が厳しかった点は公平に認めるべきでしょう。

しかしその制約条件は質問前から明確でした。短い時間であることを前提に、何を削り、何を最優先で問うかを決めるのは、質問者である吉良州司議員の選択です。

つまり自身の責任です。

※毎回どの政党から時間配分をされているのかを吉良議員は述べますが、今回はそれがありませんでした。探ってみると、国民民主党の可能性が非常に高いです。(大分論壇編集)

「幻」になったのは語らないことを選択したから

吉良議員はブログで、ご自身で判断された経緯を次のように述べられています。

100円ショップの話の方が、「わかりやすい」「生活実感として共鳴できる」という観点から、こちらを優先すべきだと判断した 2025.12.14吉良州司議員のブログから

つまり、「生活者論を語る時間がなかった」のではなく、「わかりやすさ」を優先し、語らないことをご自身で選択されたのです。

この時点で「幻の反論」は、戦略的判断の結果として放棄されただけです。幻ではなく自らそう選択しただけです。

国会議員ではなく、作家としての吉良州司さんの物語化です。

演説中心の構成が時間を費やした

さらに言えば、質問の多くがデータの詳細な説明やパネル解説に割かれており、政府の認識を引き出す「問い」としての鋭さは後景に退いていました。

国会質問は自説を披露する「演説の場」ではなく、政府の認識を引き出し政策の矛盾を突く「検証の場」という考えもあるでしょう(国会質問の持論展開について、わたしは正しさがあれば問題ないと考えています。吉良議員には正しさがないから危ういと指摘しています)。

説明を厚くし抽象論を重ねる構成を選んだ結果、肝心の反論が語れなくなったのであれば、それは時間管理と構成の問題であり、政権側の責任ではありません。

「本当は言いたかった」という物語は一見誠実に聞こえますが、語られなかった内容は検証も評価もされていない主張であり、「幻」を美談にすることは政治的議論を感情論に流してしまうことに繋がりかねません。

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吉良州司議員の「わかりやすさ」は「正しさ」の代替にはならない

吉良州司議員のブログは、国民感情に寄り添う点では成功されていると言えます。

しかし経済の説明としては不十分であり、危うい単純化が含まれています。「質問ではなかった」ことよりも、「提示された説明やデータ解釈が正しかったかどうか」こそが、政治家・吉良州司議員として問われるべき核心です。

「わかりやすさ」は「正しさ」の代替にはなりえません。同時に生活者主権にも繋がりません。

政治が一時的な「わかった気」を国民に提供する方向に進むとき、最終的に不利益を被るのは他ならぬ私たち「生活者」自身であることを忘れてはいけないのではないでしょうか?

みなさんこんにちは、上野嬢と申します。(大分論壇さんが吉良さんの性的スキャンダルにかけてつけたかどうか知りません。「【丞】と【嬢】をかけた」とは言っていましたが、わたしは信じていません。)

吉良州司さんのご出身校とは、かねてより何かとライバル視される関係にあり、正直少しうんざりしていた高校(最近私服登校が許可された)の出身です。

最近の吉良州司さんの国会議員としてまた言論人としての酷すぎる発言や姿勢に、国内でも大分でも十分な反論が見られないことに疑問を感じていました。

そのような中で、大分論壇さんからお声がけをいただき、執筆させていただくことになりました。

あくまでこれは「反論」であり、吉良さんのように「すべて自分が正しい」と主張するものではありません。

あくまで学術的な一般論として、意見を述べさせていただきます。

吉良さんの学術的には受け入れることができない主張を正確に理解できず、なんとなく賛同しなんとなくわかってつもりになる支持者の方々に。

また「吉良さんは何を言っているのかよく分からない」と感じておられる方々にも届くように、できるだけ分かりやすく丁寧に反論をまとめていきたいと思います。

なお、ここでは吉良さんの性的スキャンダルについて、女性の立場から直接批判することは控えます。

ただし10年間も吉良州司さんの性犯罪や不倫疑惑の説明責任が果たされないままという現状、そして吉良さんの国会議員としての素質や資質に目を背けてきた大分合同新聞のkawainfoセクハラ事案がなかったことにされていることは、女性としてやはり見過ごせない大分県の羞恥な問題です。

この点については、本家の大分論壇さんにお任せしつつ、私はあくまでも酷すぎる吉良さんの主張に対して、両論併記の役割を担いながら反論するだけです。

どうぞよろしくお願いいたします。