きっと話題になったはずでしょうが、いつもとある橋を通るとそう感じてしまうのです。
米津玄師版のパプリカMV感が大分にあると。
大野川のとある橋の像に米津玄師版のパプリカMVを感じる
あれは去年の年末だった。
保育園で習ったパプリカのお遊戯を延々と姪に観せられる。スマホで流れるMVの音源を頼りに踊りながら唄うもんだから、僕の頭に花が咲いた。
それからというものの、大野川にあるとある橋の像を見るといつも感じるのです。米津玄師版のパプリカMV感があると。
だから確認しに行ってきました。
するとやっぱりパプリカ感があります。特に三編みの女の子と男の子はパプリカ。
近くで見てみると、よく練られた三編み。好きな女の子が三編みだったことから、旧懐します。
米津玄師さんのパプリカって、多くの人が触れることができる懐かしさを感じるんですよね。きっとそこに「良くも悪くも」の感情があるとしても、それには逆らえない懐かしさ。
そして子どもが唄うと未来を想像する。
ミスチル桜井信者からみれば、彼は天才だと思います。
像っていつでも変わらない。どんな時も同じ顔をしています。
だから僕はその奥にあるものを引き出したくなる。文学や音楽以上に多様な感情を抱けるのが絵画や像だと、誰かが言っていたことを思い出しました。
大分的きわどい像
大野川で思い出しましたが、大分ってきわどい像が多いと思うのです。
大野川の海岸線通りには、女性的な温かい膨らみがあります。
僕はいつもその先で右折することを決めていますので、その温かい膨らみを持つ像を間近で見るために車線変更をします。
柔らかさに触れられると信じた中学生のように、窓を開けて手に風を感じながらその像を通るほどの愛好家ですが、残念ながら温かい膨らみはそこになかったことを報告しておきます。
だから真似しないで。
すれ違う車から感じる視線
「これもパプリカ感あるなー」と接近して撮影しました。
楽しそうな男の子で、この橋にある像の作者にインタビューできたら面白そうだなと感じながら、この男の子の像に接しました。
すると通り過ぎる車から視線を感じるのです。
僕は「パプリカ感ある男の子の像」を接写しているだけなのに、「不審者」のような視線。
その後パトカーが通り過ぎましたが、僕じゃないことを祈ります。
ただ「パプリカ感あるうぅ」という気持ちだけで撮影した記録をここに残しておきましょう。
謂れなき変態にされて才能が奪われた大分があるとしたら。それは護憲派が表現の自由を税金で侵害できる大分と繋がります。

これから表現の自由を行使する時は「米水津玄人」を名乗りましょう。米水津に行ったことはありませんが。
「法的根拠がない変態」の肩書を僕は欲しいです。
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