4日大分合同新聞コラム東西南北は、イスラム国に残虐に殺害された後藤健二さんが訴えた平和の大切さを風化させてはいけないと訴えています。後藤健二さん著「ダイヤモンドより平和がほしい」をご家族が購入し、小学5年生お子様がその本の表紙をみるとニュースを思い出すことを伝えています。
あくまでも僕のポリシーで語らせていただきますが「大分を守れない人が世界の平和をジャーナリズムとして守れるでしょうか?」。
そう、大分合同新聞に問いかけたいです。
それで大分の女子中高校生にスリーサイズを聞いたの?
立派なお子様だと思います。僕の小学5年生といえば、時々顔を見るいまの妻ちゃんの赤くなった顔を見て「めんどーだな」とか、本であればシャーロック・ホームズを読み漁っていた記憶しかありません。
家庭内で平和について語る環境があるのは良いこと。それを否定することはできません。
僕は旧日本軍や国防関係の家で育ったことから、理想的な平和概念を植え付けられなかった。だから大分合同新聞コラム東西南北の筆者の家庭環境で育っていれば、違った価値観があったかもしれません。
しかしどちらの平和プロセスの価値観であったとしても、大分合同新聞のセクハラ事実は覆すことはできない。
大分で平和の大切さを訴える活動を継続したいのであれば、ジャーナリズムとして大分の女性にセクハラをしたことくらい認めてはどうでしょうか?
女子中高校生にスリーサイズを聞いていた過去に振り返らず、聡明なお子様を引き出して平和を訴える。リベラルの常套手段子どもを使って自身のイデオロギーを正当化する。ジャーナリズムとして恥ずかしくないのか?
軽蔑したくなる気分です。
安全保障を語れないジャーナリズムが平和を語るのは虚像
理想としては平和を訴える気持ちは持つべきです。しかし日常生活を過ごす主権者より、安全保障の在り方に触れることができるジャーナリズムの存在を忘れてはいけません。そんな大分合同新聞がただ「平和を訴える」から物足りないと感じるのです。
安保法制は戦争法で片付けて、アメリカありきの安全保障の弊害をまったく考えようともしなかった。そんな大分合同新聞が日出生台米軍演習を沖縄の負担を考えずに批判する。そして「沖縄に心を寄せる」。
よくわからないロジックを用いて平和を愛する新聞社。
安全保障の在り方に触れることができるジャーナリズムが、平和を愛したジャーナリストの残虐な死を持ち出して、ただ理想論だけで「平和」を語るのは虚像としか言いようがない。
「なにがしてんだよ、大分合同新聞」。そう思うのです。
鳥越俊太郎炎上のようなコラム
ネット番組の開設にあたり、質問を募集したジャーナリストの鳥越俊太郎さん。自身の女性蔑視発言や女子大生暴行疑惑への批判と皮肉が殺到したことがニュースとなりました。
大分合同新聞と同じように「平和の虚像」の価値観を共有するいわゆるリベラル派というのは、自身を振り返らずに社会を変えたいなんて主張してくる。だから共感は生まれず、炎上しか生まない。
幸いこの県では、大分合同新聞による県民女性と女子中高校生へのセクハラ事実を「どうでもよい」と考える、もしくは「知らない」県民が多いことから炎上はしない。でも事実が県民で共有されていれば、鳥越炎上と同じようなコラムだったことになります。
子どもを持ち出して平和を訴えるが、子どもにはスリーサイズを聞くジャーナリズムとか、毎日新聞のようにもう変態。
知性とは、自身を振り返ること。自分ができないことを相手に求めるのは知性がない。統一地方選が控えているなか、まだこんな知性の欠如と拙劣なジャーナリズムで社会を語ろうとしている。
なにがしたいんだよ、大分合同新聞。
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