大分にまつわる国の重要無形民俗文化財はよく知らない。それでも「修正鬼会」は大分のニュースで見たことがある。その修正鬼会が来年2月の開催が困難になったとして休止となった。理由は地域の高齢化によって開催の負担が大きくなっているという。檀家や市教委から開催を求める声もあったが、修正鬼会を行う成仏寺の住職は今回は開催しないと判断した。
高齢化は確かに厄介な波だ。だが理由はそれだけではないような気がする。檀家や市教委の協力があれば、開催までは手繰り寄せることができるようにも“部外者の僕”には見えてくる。もしかしたら、そう簡単にならわしなどを身に着けることができない行事なのかもしれないが、今回に限っては周囲の良心的な方々の努力によって開催までは漕ぎ着けることができるような気がする。それができない理由があるのではないか?
なんだか国東半島が混沌としている。そしてこの住職の決断になんらかのメッセージが含まれているような気がしてならない。
ゴームリー像。県と芸術祭が「関心を持ってもらえればいい」という理由で、地元六郷満山会の反対を押し切り誘致したいわくつきの像。この像の存続を巡って国東半島に住む住民らの人間関係が悪化しているという。活性化したことの恩恵をこれからも得たい方々と、やはり地元の伝統を守りたいという方々が対立をしている。
県と芸術祭、そして六郷満山会もこのような状況を望んではいなかっただろう。でも手を引くべきだったのはどちらなのかは、最初から容易に判断をつけることができていたはず。それを知らなかったという人間がいるとしたらそれは傲慢だ。人間として乏しい僕が住職のことを評するべきではないことを百も承知であるが、ゴームリー像誘致で国東半島の伝統を重んじることができなくなったことを体感し、それによるモチベーションの低下があったのではないかと想像してしまう。
ゴームリー像における国東半島の対立を、早急に緩和する必要がある。
信仰の場に「関心を持ってもらえればいい」という新たな資本が生まれたことで、人間同士が対立するようなことがあってはならない。住職らの願いは同じだろう。対立緩和を担うのは県と芸術祭であるべきだ。それが「人を傷つけても関心をもってもらえればいい」の責任だろう。その一歩として県と市は、修正鬼会を再開させるために後継者の育成に尽力するべきだ。
去年の早々、関係者の方からメッセージをいただいた。「ゴームリー像は禍根を残す」という切実な声が僕は今でも忘れることができないでいる。
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