認定できないのではなく、認定しなかったと主張する。
県教委の聞き取り調査で、疑惑を持たれた教諭はコードに触れたが不正の意図はなかったと主張した。それにより、大分県教委は教諭を懲戒処分のなかでも最も軽い戒告処分とした。ただし日本フェンシング協会はその教諭を無期限追放処分、会場にも入れないようにしている。
なぜコードがむき出しになっていたのか?という突っ込みどころがあり、そこにこそ不正の有無に踏み込めることができた。不正の有無を調べるための突破口は充分にあったが、県教委がその気でなかったようにも見える。
忘れないでほしい。
県民の声がなければ、大分県教委はこの件について調査する気がなかったことを。忌まわしい大分県教委汚職事件も真相究明できない大分県は、隠蔽県おおいたでもある。この組織には自戒という概念がないようだ。
人間というのはどこかしら、けりをつけないといけない時が来る。そのきっかけを失うと、その次またその次も同じことに対峙した場合、同じことを繰り返してしまうようになる。最初に向き合うことができなければ、その次も同じ結果になる。大分県教委汚職事件がそうあったように、フェンシング不正もそうなる。また不正が起きた場合、また隠蔽することになる。永遠にそのループを繰り返すようになる。
不正はあったが調査する気がない姿勢を、その次にもその次にもまたその次にも、大分県教委はそうみせるのだろうか。大分県教委汚職事件に向き合うことができない大分県教委、そして県にこの調査などできるはずもなかったことを知っていたはずだったが、今度こそはという想いがあった。そしてまた裏切られた。
そんな大分に住んでおり、そんな大分を僕らは許していることになる。大分に想いを馳せるうねりが必要であるのだが、ただこの街はそれを生む媒体が弱い。
政権批判を繰り返すことに忙しい大分合同新聞は、自分たちの街の権力者に対して本当に甘々な姿勢をみせる。だからこそうねりを生むことができない。自分たちの当時の幹部が関わっていた事件だった。それに対する自戒を込めた意味で、何が何でも追求するのが本来あるべきマスメディアの姿であるのにそれができない。イデオロギーとメンツを重要視し、政権批判に躍起になって自分たちの街を軽視するマスメディアが大分合同新聞である。
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