新年早々大分合同新聞論説に問いたい「大分らしさ」とはなんだろう?

あけましておめでとうございます。

今年も大分大学が嫌う多様な意見を述べるプラットフォームとして頑張っていきますので、よろしくお願いします。

2018年元旦大分合同新聞論説は、「大分らしさ」を説きました。2度目の国民文化祭が行われる今年。20年前に開かれた最初の国民文化祭を契機に「豊の国文化立県」を宣言。「生活の営みの時間と空間のすみずみまで文化の彩りと薫りが感じられる大分県の実現を目指す」。こんな理想で今に至っているようです。

今年初めての論説で、共同通信社に頼らないで書いたからこそ大分合同新聞に問いたい。

「大分らしさ」ってなんでしょうか?

元旦、論説にも言及されていましたが、六郷満山1300年の記念行事が今年行われます。地域の分断を招いたゴームリー像紛争をまるでなかったかのように大分マスメディアは、大分で根付いた異文化の融合として六郷満山を強調。

この紛争の明確な背景としてとらえるべきポイントは、僧侶が拒否したものを「神仏習合」のゴリ押しで県や主催者側が強硬したことです。強行ではなく、強硬のニュアンスです。この強硬は、僧侶らが受け入れるしかない風潮を生むことに成功しました。神仏習合を持ち出されれば、僧侶たちも逃げ場はありません。文化における既成事実を、拡大解釈をして突いただけなのです。

僧侶たちを精神的に痛めつけ、激しい賛否両論を生んだゴームリー像を徹底して無視し、六郷満山1300年の歴史を強調する。こんな卑劣な大分に対して、僧侶は何を思うのでしょうか?このような人たちの気持ちを、僕ら大分県民は立ち止まって考えて「文化」と口に出さなければいけません。
大分合同新聞文化賞を受賞した大分芸短の学長は、ゴームリー像を「ダビデ像」と同じと評しました。芸術は時代と共に受け入れられ、いつか受け入れられる存在になると。だったら、学長の家の前に建ててあげるべきです。時間を掛けて地域に受け入れてもらいましょう。

こんな当たり前の「倫理的パラドックス」さえも生まれない大分に、果たして文化なんて、そもそもあるのでしょうか?

神仏習合の文化を国東半島に持ち込んだのは、僕らや大分合同新聞、芸短の学長、そして県ではありません。僧侶たちの寛容な心と地域への根回しです。そんな僧侶や地域の住民たちの反対意見を無視し、文化の融合をゴリ押しして「それを受け入れろ」というのが、大分の文化になっている事実。

これを「大分らしさ」にしていいのですか?

大分大学は表現・思想・言論の自由の侵害をIPアドレスを隠蔽してまで行おうとします。そんな国立大学があるなかで、「豊の国文化立県」なんて冗談じゃない。あくまでも文化というのは、基本的人権の根幹にある表現・思想・言論の自由が認められた社会で行われてきました。確かに文化として受け入れられなかった時代はありますが、先駆者たちの想いは表現等の自由の精神が根幹です。

それでも表現等の自由にも制限があります。「その落としどころを言論でしようよ」というのが、文化人の営みなはずなんですが、ゴームリー像には僧侶に反論させない風潮を県が作り上げ無理やり受け入れさせる。大分大学の人権派にしては「人権侵害をねつ造」して、しまいには参政権まで「卑近な思想」を理由に否定してきました。

「行政や政治を語るブログに女性の魅力を正当化したイデオロギーはまぎれもなく差別的言動・女性蔑視であり、卑近な思想なのでブログタイトル名を変更してほしい」。

最初は何かの暗号のように思ったのですが、人権派は真面目にそう思っているようです。でも僕は政治は身近に存在するものと考えていますので、僕の大好きな女性の魅力と同時にプラットフォームで語ることを辞めません。それが受け入れられないのであれば、倫理的に社会的に反することを大分大学が証明するべきです。僕も言論で反論します。

真面目に落としどころを探るのであれば、IPアドレスを隠蔽する必要はありません。この人権派がしたかったことは、大分に保守思想はいらないといった「明確な思想差別」があった。ここが問題なのです。

障碍者の方の意向を確認せず投票したケースが衆院選であったようですが、適切な判断ができない障碍者の意向を無視していいはずがありません。それと同じで「バカだから、もしくは普通だから政治に発言せずに黙ってろ」というのは、文化人の集合体としてある大分最高学府の言動として、到底受け入れられるものではありません。

これが大分の人権を愛する左翼や革新派の発言ですよ。しかもまだすごいのが、大分大学から600アクセス近くになっているのに、まったく反応がないこと。人権とか多様性とか毎回大分合同新聞紙面で教職員が述べているのに、どうなっているんでしょうか?この国立大学。

何度も言いますが学生に罪はありません。あるのは、いつも都合良く、顔や思想を見ながら人権を発動している教職員です。本当の差別主義者が大分大学にいます。「大分大学の文化人は差別主義者しかいないのか?」と疑ってしまいます。恥ずかしい大分の戯画化です。

これがいまの「文化における大分らしさ」。

権力を使い、勢力の拡大解釈によって相手側の拒否権を行使させない、表面化させないやり方が「大分らしさの文化」になっている事実に、大分合同新聞は向き合いましょう。

学府から信じられない卑劣な人権侵害が起き、その大学でエンジン01文化戦略会議オープンカレッジ大分が行われることも、大分合同新聞は忘れないでください。「無関心こそ罪」なんてよくジャーナリズム界隈は言いますが、保守だけに人権侵害のスケープゴートをして、保守や現政権支持者を憎む勢力が行う人権侵害は徹底して無視する。そんな大分で文化なんて根付くはずもありません。むしろそれが「大分の文化」であるなら、「間違っている」と徹底して抗っていきます。

今一度、現状の否定されるべき「大分らしさ」を受け入れ、そこから「大分らしさ」をどう修正するのか?提唱する大分合同新聞論説こそ明確にするべきです。せっかく共同通信社に頼らない論説を書けたのですから。

今年はひとつでも多くの“自前の論説”を期待しています。共同通信社の中身のない論説なんてまったく面白くもありません。大分合同新聞の論説・東西南北を書く人たちはchampagne socialistなのですから、せめてこのくらいの努力くらいしてください。問題提起できるのですから。もちろん揶揄と挑発と、激励です。

大分合同新聞は「現状の馬鹿げた大分らしさ」から逃げてはいけません。そこから脱するべきと考えるのであれば、もちろん僕もお供します。

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