大分合同新聞東西南北の罰ゲームケツバットに寛容な姿勢から見えてくるこの県の在り方

年末大分合同新聞の東西南北で、年末恒例の絶対に笑ってはいけないシリーズにある「罰ゲームケツバット」を容認したことが僕はとても印象的でした。大分大学人権派のように、差別や人権を使って自身を正当化し、それを容認する陰湿で卑劣な大分の知性が多い県で、正々堂々と意見を述べた東西南北執筆者に惜しみない敬意を表したいです。

「いじめや暴力を助長する」という意見に対し、大分合同新聞東西南北は「番組が悪いのではなく、受け取る個々人の問題。娯楽は娯楽と受け止め純粋に楽しめば良い」と、なにかと自身を正当化させるために人権や子供を使う風潮に対して、挑戦的な物言いをしました。僕も同じように感じます。

だから大分合同新聞のような乱暴な上から目線ではなく、僕なりに道徳的責任からこの問題を見つめてみましょう。

もちろんバラエティの作り手として、社会規範のお手本になるものを作らないといけないことも承知していますが、制約原理で縛ってしまうのはとても簡単な制限になります。ただでさえコンプライアンスでどんどんテレビが面白くなくなっていると言われています。その正体は自主規制。その規制を生んでいるのは、視聴者であり、クレーマーです。

クレーマーの意に沿う道徳的責任で縛ってしまえば、もう制約原理の限界などありません。何にもできなくなってしまう時代が訪れるでしょう。

そこで道徳的責任を、大人が子供に教える教育と考えてみるのです。

大人の役割として、フィクションとリアリティの区別をつけさせること。これが道徳的責任であり、大人の役割と考えます。「あれは芸人さんだから成り立っている。普段の生活に取り入れてもまったく面白くない。そもそも面白いことをしている人に笑って罰ゲームが発生しているなんておかしいと思わない?」と辛抱強く子供たちに諭すのが、僕らの道徳的責任のように感じるのです。

確かに過激な性的映像や殺戮シーンが多い映画やゲームが子供に悪影響を与えるようですが、罰ゲームのケツバットと次元が違う話です。

制約原理を作って、制限するのはとても簡単です。でも社会生活において反社会的な誘惑は必ずあるもの。それに対して制約原理で縛ってしまうような世の中が健全だとは、僕はまったく思いません。その未来は基本的人権の根幹である表現・思想・言論の自由を脅かすことになるでしょう。実際大分大学では、いま平然と起きていることもお忘れずに。それと同時に理性の衰退を招くはずです。在日朝鮮人に対するヘイトや大分大学人権派を代表するように、何も考えないで発言する人が増えているこの世の中で、さらに理性の衰退により思考停止に陥る社会を歓迎するなんて、どうかしていると思います。

その未来を防ぐためにこそ、道徳的責任として子供たちにフィクションとリアリティの区別をきっちりと教えること。それが僕ら大人の道徳的責任。辛抱強く行うことが責務です。そこから逃げない社会にすること。こんな威風堂々とした東西南北を書いた大分合同新聞だからできることがあります。
違った観点からこの問題をうがってみてみましょう。こんな見方をすることもできるはずです。

罰ゲームケツバットは年末大晦日にあのようなバラエティを放送していることを許せない人たちが「暴力やいじめを助長する」といったロジックで正当化させて問題化させようとしていること。これも論争の一因だと感じます。今度は黒人差別を問題提起することに成功しました。差別を使えば黙ってしまうように、子供が被害者であれば問題提起しやすい。それと同じで長年妨げられてきた黒人を対象にしました。

年末のこの番組を排除することで、子供のいじめ問題がなくなる、人種差別がなくなるのであれば良いですが、その先の未来はみなさんもう知っているはず。ただの利己的な問題提起になっているだけなのです。アメリカにおけるなにもかも人種差別に結び付ける人種レトリックが生み出すものは、解決策ではなく利己的な人権の顕在化です。それと同じことをしても、結局誰も救えないと思います。

僕はこの番組を笑えないので見たくありませんが、あのバラエティを見て笑う人を嘲るのも間違っていると感じます。だからこそ道徳的責任として作り手に求めるのではなく、僕ら大人が子供に向き合う道徳的責任の方が折り合いがつきやすい。

また僕らは「見ない・見せない」を行使する権利を持っていることも忘れてはいけません。罰ゲームケツバットを「見てしまった」では、「罰ゲームケツバットを追放しろ」という主張は、とても薄いと感じます。そういう意味で作り手に責任を押し付けるのは傲慢です。

さて、大分合同新聞東西南北は正々堂々と罰ゲームケツバットを容認しました。そんな新聞社に2度目の敬意を表します。でもこの責任から逃がしません。

女性にスリーサイズを聞いてたことは道徳的責任としてどうなのか?またそこから生まれた卑劣で陰湿な大分大学人権派の言動について道徳的責任問題もあります。「新聞社が女性にスリーサイズを聞いても許される」、「人権派が行う人権侵害は許される」なんて、これ以上恥ずかしい大分があるでしょうか?それに気づけない大分の知性なんてものも存在しています。

こんな大分で、エンジン01文化戦略会議そして国民文化祭おおいた大茶会なんて、本当にできるのですか?こんなむちゃくちゃな人権に対しての定義を持っている県で、大分の知性たちが「文化」なんて言ってることが笑えます。ジャーナリズムはここから逃げないでほしい。

年末の風物詩となりつつある「罰ゲームケツバット暴力いじめ問題」。もう少し掘り下げていくことによってこの本質に迫れると思うのですが、せっかくの機会なので大分合同新聞は逃げずに道徳的責任をまっとうしてほしいと願います。そうすれば大分大学が行った重大な人権侵害、そしてこの新聞社の環境型セクハラ行為の重大性も見えてくるはずです。

社会問題化させるためのプロセス。これが利己的な人権で行われていることに踏み込んでほしい。公共の福祉の名においての社会問題化のプロセスとその在り方。大分ジャーナリズムはもっと真摯に取り組むべきです。

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