それぞれに守りたいものがあるのでしょう。表現等の自由が誰にでも存在することを明文化できない文化庁は、国民文化祭おおいた2018・おおいた大茶会の成功。「憲法違反なら国を訴えて」の人権擁護課は、想像したくもありませんが守るべきものがあるはず。
ではこの人の守りたいものはなんでしょうか?
法曹界に人権意識向上と憲法違反共闘のため、安倍政権批判を求める人物が存在している。
安倍政権批判を行えば力になる
法曹関係者を名乗る人物から、こんなアドバイスをいただきました。信じられなかった。人権意識の向上と憲法違反の共闘に安倍政権批判が必要なことを、僕はまったく知りませんでした。つまり人権屋です。
その人権屋は言います。「今回の行政の対応は問題がある」と。そう認識しているにも関わらず、安倍政権の絵踏を求める。ここに社会的な有益性を見出すことができません。
政権の絵踏をさせることで人権意識が向上するとは思えませんし、ただ政権批判に繋げたい思惑しか存在していない。人権が公共の福祉を置き去りにして、独善的に機能している典型的な例です。
守りたいものは自身のイデオロギーだと透けて見えてきます。
国民文化祭2018開催がきっかけとなった人権偽善者たちの存在
皇太子殿下として最後の国民文化祭に参加された徳仁親王は、子育てについて語った時ドロシー・ロー・ノルトの詩を朗読された言います。「批判や暴力ではなく激励や愛を子どもに注ぎなさい。そうすることで世界が変わる」といった詩です。
このような優しい考えを持つ皇太子殿下を、公益を追求する組織が平然と人権侵害を行う大分に何も知らないまま迎え入れたことは、大分にとってこれ以上の恥はないと考えます。
国民文化祭2018おおいた大茶会開催で判明したのは、人権偽善者たちが存在していること。何度も書きますが、文化構築に表現・思想・言論の自由は欠かせません。この自由は基本的人権の根幹。
これに答えられない文化庁、その人権侵害と憲法違反に「国を訴えて」と威圧したのが大分地方法務局人権擁護課です。こんな状態で行われているのが国民文化祭2018おおいたであり、おおいた大茶会です。つまり国民文化祭として成立していないのです。
リベラル層の姿勢には驚愕しています。立憲主義や国民主権を叫ぶ「無関心は罪」を標榜する人たちが無視をする。書いていないことに勝手に想像を膨らませて「あなたにも問題があるのでは?」と、恥じることなく“me too界隈”が言えるのです。
この状況はリベラルの定義の修正が必要です。偽善者であることを明記する事態です。
そんなに人権意識向上や憲法違反の共闘のため自身の政治的イデオロギーが必要でしょうか?このきっかけを作った大分大学人権派も「保守」を敵視し、学内のIP偽装をして人権侵害を行いました。
安倍政権批判や保守批判をすれば、人権侵害や憲法違反として応援するといった考え方は独善主義です。世界の素晴らしい人権意識にどんなに触れようとしても、人権が独善主義の構造に存在しているのであれば公共の福祉として成り立ちません。それは独裁者の世界です。
僕らは政治的イデオロギーを乗り越えて、この不条理な現状と実態を打破しなければいけません。だからこそ問いたい。
人権意識向上や憲法違反共闘に安倍政権批判は、そんなに必要ですか?
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