去年の夏そして今年大分市で成人式が行われた日に、大分市の女子中学生が自ら命を絶っています。いじめで自殺未遂を繰り返していることが発覚した大分ですが、いじめ以外にも中学生の自殺行為は起きています。
大分大学の護憲派教育者から大学のIPを偽装して税金で人権侵害を受ける稀有な体験をしたことから、亡くなった子どもたちは「どんな偽りの多様性と人権の義務教育」を過ごしていたのだろうかと興味があります。
だからひとつの現場に訪れました。
どんな子でも見捨てないむき出しの覚悟を大分に
花束と缶コーヒーがお供えされている現場。「女子中学生に缶コーヒー?」と想いを巡らせたのですが、何も出来なかった人の何かをしたかった純粋な想いを感じます。
特急列車が来るまで待ちました。
とんでもないスピードで駆け抜けていく。現場は一歩下がるほどの威圧を感じます。それに彼女は飛び込んだ。あるいは線路上で待ち受けた。
何をどうすればこんな悲劇を防ぐことができるのかに対して答えはそう簡単に見つかりませんが、「どんな子であっても見捨てない」。その一点だけでも救われる子がいるかもしれない。
それを放棄したのが、大分市教委いじめ自殺未遂隠蔽工作疑惑です。教育行政すら子どもに寄り添おうとはしない。この絶望感に晒されているのが大分の子どもたちであることに、もっと強い危機感を持つべきです。
こんなことが平然と起きる淵源を問われたなら、僕は大分大学IPアドレス隠蔽事件を根拠としてあげます。
人権や多様性を訴える側が自身が認めない人格を見つければ、税金を使ってまで「卑近な思想」として糾弾する。これを教育者が恥じることなく、理性すらなく、先生を育成する大分大学から主張しているのですから。
陰湿な大分教育行政の淵源
卑劣さと人間性ゼロの点が、護憲派人権侵害教育者と大分市教委がまったく同じです。さらに卑劣な大分教育行政の淵源を遡れば、大分県教委汚職事件となる。
護憲派人権侵害教育者もこの事件に関与した疑いがあることもお忘れなく。
生き辛さを訴えるが、自分たちの界隈であれば公共の福祉という人権の概念すら放棄して、くだらない護憲派イデオロギーのもとで人権侵害の加害者を守り、その代償として人権の価値が失われていく。
最終的に守れたものは、子どもでもなく、人権でもなく、自身のみっともない無価値なイデオロギーだけだった。
こんな未来が予見できる大分にどう向き合うのか?僕たち大人に問われていることです。
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