去年からフリーランスになり時間を満喫しております。
大分トリニータのサポーターをやめた僕は、今年から屋号を「大分とりニート」にしようかと考えながらも、ためらってしまう小心者です。
昼過ぎあたりにランニングすることも多くなり、そんなときに気付いたのが水曜日は小学生の低学年児童が早く下校すること。
それくらいの年齢の児童に話しかけられることが多い「大分の不審者に対する啓蒙」を疑う僕は水曜日を避けます。
その日は、水曜日であることを忘れていました。小学生の靴紐を結んだ話をするのは、oitaが過ぎますかね?
小学生の靴紐を結ぶ不審者を恐れる男
追い越すターゲットになった2人の小学生。ひとりはすでに靴紐がほどけていることをアピールしていた。紐を踏まないようにその足を蹴り上げるのを後方から確認する。
このご時世ソーシャルディスタンスも考えないといけない。小学生、特に低学年の児童から話しかけられやすい僕にとっても、周囲から不審者と疑われたくない。
社会がどうこういおうとも、僕は子どもが苦手である。
そもそも僕は教育者から税金で人格を否定されている。そんな僕が児童と接触するなんて許されないのが大分だろう。
そのまま追い越そうと決めた。その瞬間、聞こえた。
「うちまでもう少しだからがんばって」
大通り。それなりに車は通っている。少なくても不審者と特定されるようなことはないだろう。教育者から税金で避けられた過去を持つ僕は、男児の靴紐を結ぶことを決意する。
結べるけれど結べない男児
踵を返し、ただ一言「結んであげましょう」と告げる。
文字にすると不審者だ。「結びましょうか?」が最適解だろう。
女児は「よかったね!」と無邪気に男児を労い、男児は「ありがとうございます」と返答する。
サッカーで狙ったシュートができない時は靴紐のせいにしていた僕は、とっさに結び直す実戦を繰り返してきたので、低学年児童の靴紐を結ぶことにそう苦労はしない。
きつすぎないように気を付けながら結んでいると、「本当は結べるんだけど今日はすぐ元通りになる」と聞いてもいないことを僕の頭上で発する男児。
「ちゃんとお父さんとお母さんにおしえてもらわないからだよ」と女児。「今日はうまくいかないんだ」と返す男児。
ケンカの領域展開が発動しそうなので、遮るように「きつくない」ことを確認した。「ありがとうございます」を確認して去ろうとすると、ちょっとしたことに気付いた。
女児と男児の声が重なって聞こえたのだ。背丈は一緒、顔も似ている。日常にある融合だ。
「ありがとうございます」のハーモニーは、ふたりの小学生に向けて新しい言葉を生むように僕を強制した。
「じゃあね、善逸と禰豆子ちゃん」
ふたりのマスクがその柄であることを発見したことで生まれたお別れの挨拶。しかし鬼滅キッズ、術式を展開し始めた。
「誰が好き?」とハーモニーは終わらない。村上春樹さんの主人公の「やれやれ」はきっとこんな気持ちなのだろう。
ダイドーカフェオレを開けないくらい好きな甘露寺さんの名前をあげようとした。甘露寺さんのパッケージで飲むミルクというのが、僕にとって守りたい時間なのだ。
多様性ってなんて素敵な響きなのだろう。
しかし鬼滅キッズには刺激が強く、そもそも不審者情報になり得るような答えだ。
大分合同新聞の不審者情報に「甘露寺(胸が強調されたキャラクター)が好きと答えた不審者情報」原文そのままで注意喚起されるのはどうしても避けたい。
無難に主人公の名をあげようとすると、なぜか名前が出てこない。早く切り上げたい僕はとっさに言ってしまった。
「石炭みたいな名前の人、誰だっけ?」
こういうときって、子どもは本当に首を傾げるんだ。
急に恥ずかしくなったので「じゃあね」とその場から逃げるようにランニングを開始すると、「炭治郎!」と背中に投げかけてくる。察しがいい女児だ。
手を振り立ち去る。急に熱くなった体。恥ずかしさから逃げ出したい気持ちになり、小道に入るためコーナーを曲がる。
その瞬間、小学生の方を見るとまだ手を振っていた。
人通りが少ない道を逃げる不審者を想像する。でも子どもに手を振られながら逃げる不審者はそういない、はず。
いつもより早く汗をかいたランニングとなった。もう水曜日の昼は走らん。
特定野党支持者の護憲派教育者が、税金を使って「私費で行う表現・思想・言論の自由」を侵害できる大分県。
これらの自由は憲法で保障されている基本的人権の根幹です。
公務員を想起する特定野党支持者の護憲派が憲法を知らない絶望的で恥辱的な大分県に、表現・思想・言論の自由は本当に存在しているのか?
だからこそ挑戦したい企画・「oitaが過ぎるでしょうか?」。不定期連載。
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