多和田葉子さんの献灯使を読む 人間らしい責任とは

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汚染をベースにさらに悲劇的な日本が描かれている多和田葉子さんの献灯使です。

年寄は元気に、子どもはか弱く生活をする。現代社会の必須アイテムが奪われていく過程は読者のたくましい想像力に一任されますが、過酷な状況のなかでもいまを生きていく人たちが描かれています。

多和田葉子さんの献灯使を読んで責任を想う

責任の放棄と保持を感じました。

放棄によってこの世界観があり、苦しむ民。その社会で個人として生きるためには責任を放棄しなければならないこともある。しかし放棄できずに過剰とも言える責任の保持を生きがいにする人達もいる。

人間性を用いて責任を語ると保持することがそれらしさになるでしょうが、この世界観であれば放棄することも人間らしいとも言えます。

責任とは何なのか?

そんなことを考えさせられる作品です。

散りばめられるささやかな寸劇

人間を見る動物の会話でもそう、健気に生きるか弱い子どももそう。くすぐられるささやかな寸劇が散りばめられているのも印象的でした。

それほど血縁の強さを感じない老人を、明日を生きることも不安定な子どもが呼び捨てで紹介。この感覚はしびれましたね。

どんな状況であっても、子どもの無邪気さは感性をくすぐります。

ロバート・キャンベルさんの解説が良い

文庫本の解説ほどつまらないものはないと思っていますが、ついつい読んでしまい「またつまらないものを読んでしまった」とため息をつくことも多いですが、献灯使では違いました。

ロバート・キャンベルさんの解説がとても素敵です。

物語から逸れて「おまえのブログか無責任なコメンテーターとして活躍しろよ」のような傲慢な解説が多いですが、ロバート・キャンベルさんは献灯使に寄り添った丁寧な解説をしています。

「すべてロバート・キャンベルさんに担当してもらえたらいいのに」なんて想うほど、最近読んだ文庫本の解説で飛び抜けて素敵でした。

献灯使の艶文

献灯使でぐっときた艶文を2つ紹介しましょう。

他人の手に触れられて初めて自分の存在がそんな後の方まで膨張していることに驚かされた

献灯使から

女性ならではの感覚で、すごく好き。男性ではあれば空間はそれほど感じません。少なくても僕は。

二人は、奪い、奪い合い、字体を変え、画数を変えながら、漢字だけが与えてくれる変な快楽を味わい尽くした。そのうちどちらが東田一子で、どちらが束田十子なのか自分でもわからなくなってきた。

献灯使から

女性同士のまぐわいを表現しています。

いろんなまぐわい表現がありますが、そのなかでも多和田葉子さんの献灯使は忘れられないほど衝撃を受けました。

税金で表現の自由を侵害できる大分で卒倒する方もいそうな、美しいまぐわい表現です。